2026年度
第46回全国大会 プログラム
| 日時 | 2026年10月31日(土) 10:20〜16:35 |
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| 場所 | 関西学院大学西宮上ヶ原キャンパスB 号館103教室 〒662-8501 兵庫県西宮市上ケ原一番町 1-155 https://www.kwansei.ac.jp/nuc/assets/nuc_map2026.pdf |
| 受付(9:50〜) | ||
| 開会の辞 (10:20) | ||
| 相愛大学教授 | 石 川 玲 子 | |
| Ⅰ 研 究 発 表(10:25〜12:25) | ||
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司会
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北九州工業高等専門学校准教授 | 原 田 洋 海 |
| “Uniqueness”と“Dailyness”の共存 ――デジタル・ヒューマニティーズから見るダロウェイ夫人の街歩き |
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| 専修大学兼任講師 | 甲 斐 絵 理 | |
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司会
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岐阜聖徳学園大学准教授 | 四 戸 慶 介 |
| E・M・フォースターとヴァージニア・ウルフの小説観 ――初期の短編小説における人物描写の類似点 |
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| 奈良女子大学非常勤講師 | 松 林 和 佳 子 | |
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司会
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東京学芸大学教授 | 大 田 信 良 |
| 日露戦争と『ユリシーズ』についての研究の現状と課題 | ||
| 熊本保健科学大学准教授 | 田 中 恵 理 | |
| Ⅱ 総会(12:30〜13:00) | ||
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司会
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相愛大学教授 | 石 川 玲 子 |
| 会計報告、編集委員会報告、次期大会、その他 | ||
| 九州大学教授 | 鵜 飼 信 光 | |
| Ⅲ シンポジウム(14:00〜16:30) | ||
| 反出生主義から読むヴァージニア・ウルフ | ||
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司会・講師
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東京大学教授 | 田 尻 芳 樹 |
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講師
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防衛医科大学校准教授 | 矢 口 朱 美 |
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講師
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都留文科大学教授 | 加 藤 め ぐ み |
| 閉会の辞(16:35) | ||
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会長
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九州大学教授 | 鵜 飼 信 光 |
| 懇親会(17:00〜19:00) | ||
| 会場:関西学院会館(上記リンク先キャンパスマップ 6番の会館内「翼の間」) 会費:6,500 円(学生 3,500 円) |
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| ※本大会は 関西学院大学「2026 年度学術集会開催補助」の後援を受けています。 | ||
研究発表・シンポジウム 要旨
研究発表 要旨
“Uniqueness”と“Dailyness”の共存
――デジタル・ヒューマニティーズから見るダロウェイ夫人の街歩き
専修大学兼任講師 甲斐 絵理
本発表では、ヴァージニア・ウルフの短編 “Mrs Dalloway in Bond Street”(1923)を、長編 Mrs Dalloway(1925)の習作ではなく、戦前の都市経験を引き継ぐ女性主体の意識を描いた独立した作品として再評価する。長編が複数の意識を通して戦後の断片化した都市を描くのに対し、本短編はクラリッサ・ダロウェイという一人の女性の知覚に焦点を当て、戦前から続く時間意識の連続性を表象している。本研究では、Matthew Beaumont の都市歩行論を批判的に継承し、クラリッサの歩行経験を政治家の妻としての社会的役割に由来する“Uniqueness”と、一人の女性として街を歩く身体的経験に基づく“Dailyness”という二つの視点から考察する。また Google Maps やGIS 的アプローチを用いたデジタル・ヒューマニティーズの手法を取り入れ、クラリッサのボンド・ストリートまでの歩行ルートと意識の変化を可視化することで、テクスト上では捉えにくい「意識の地理学」を明らかにする。こうした分析を通じて、本短編が都市空間、歴史的時間、女性主体の経験を重層的に描いた完成度の高い作品であることを示すとともに、文学と地理学などを横断する学際的読解の新たな可能性を提示する。
E・M・フォースターとヴァージニア・ウルフの小説観
――初期の短編小説における人物描写の類似点
奈良女子大学非常勤講師 松林 和佳子
同時代に文壇で活躍した E・M・フォースターとヴァージニア・ウルフは共に後世に名を残す作家となったが、伝統的な文学形式を用いるフォースターと実験的手法を積極的に取り入れるウルフは、ともすれば対照的な作家と捉えられがちである。しかし、彼らのエッセイや評論に目を向けると、いかに複雑な現実を表現するかという点に関して、意外にもこの 2人の作家の小説観が似通っていることに気付く。
本発表では、フォースターの「コロノスからの道」(1903)とウルフの「ミス・V の不思議な一件」(1906)という初期の短編小説に焦点を当て、主人公の描写の特徴について考察したい。この 2つの短編小説の作風は一見大きく異なっており、フォースターとウルフに対する従来通りの認識を体現しているようにも感じられる。しかし、日常世界を生きる人物がどのように描かれているかに注目し、これらの物語を緻密に分析していくと、多面的な現実を小説で表現するための新しい方法を、彼らがそれぞれのやり方ですでに模索していた様子が浮かび上がってくる。本発表では、彼らのエッセイに表明されている小説観も参照しつつ、これらの短編小説を比較・検証し、小説における現実描写の可能性探究という観点から、フォースターとウルフの類似点を明らかにしたい。
日露戦争と『ユリシーズ』についての研究の現状と課題
熊本保健科学大学准教授 田中 恵理
ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』の舞台となった 1904年6月16日は、まさに日露戦争の最中であった。作中では、日露戦争について言及される場面がいくつかある。例えば、第4挿話では、パブの主人オルークが「ロシア人なんて、日本人にとっては朝飯前だ」(U 16.116-17)と言い、第12挿話でジョー・ハインズが「他国を支配しようとするのがロシア人の望みだ」(U 12.140)と述べる。登場人物たちの日常会話の中に日露戦争の話題が盛り込まれていることから、この戦争が当時のダブリン市民の間で関心を集めていたことがうかがえる。ただ、ジョイスが『ユリシーズ』を執筆したのは第一次世界大戦期から戦後にかけてであり、そのため、ジョイスは、ロシアが日露戦争に敗北しその後の混乱を経て革命へと向かう歴史的背景を知っている立場から、それをまだ進行中の出来事として語る 1904年のダブリン市民を描いていることになる。このように、『ユリシーズ』で言及される日露戦争は、単なる時事的背景にとどまらず、帝国主義、植民地主義、さらにはポストコロニアルな視点から解釈するための重要な契機を提供していると言えるが、この問題を論じた研究は限定的である。そこで、本発表では、日露戦争と『ユリシーズ』についてのこれまでの研究を整理した上で、ヴァージニア・ウルフが生きた英国とジョイスが大陸から眺めたアイルランドにおける日露戦争の受容の差異、とりわけ非ヨーロッパ国である日本の勝利が植民地アイルランドに与えた象徴的意味について、今後の研究の課題として提案し考察したい。
シンポジウム要旨
反出生主義から読むヴァージニア・ウルフ
| 司会・講師 | 東京大学教授 | 田尻 芳樹 |
| 講師 | 防衛医科大学校准教授 | 矢口 朱美 |
| 講師 | 都留文科大学教授 | 加藤 めぐみ |
反出生主義(anti-natalism)は南アフリカの哲学者David Benatar, Better Never to Have Been (2006)が火付け役となって分析哲学や倫理学で近年重視されている思想である。ベネターは分析哲学ならではの純粋に論理的な論証で、「人は生まれないほうが良かった」(誕生否定)さらには「子供を作ることは倫理的に間違っている」(出産否定)という結論を導いている。しかし、この議論は個人の実存の問題が抜けているため、一種の論理ゲームのように見えかねない。そこが不満な森岡正博は、より広い「生命学」の中でこの思想を捉え直し、哲学、宗教、文学との関連で論じようとした(『生まれてこないほうが良かったのか?』、筑摩選書、2020)。彼はゲーテ『ファウスト』、ソフォクレス『オイディプス王』などの文学作品の他、ショーペンハウアー、古代インド哲学、仏教、ニーチェなどを幅広く取り上げ、反出生主義を分析哲学という狭い枠から解き放った。この延長線上に、英文学のさまざまな作品を反出生主義というプリズムを通して読み直してみることができるだろう。
ウルフと反出生主義(序説)
田尻 芳樹
まず、反出生主義についてその概要を説明し、出産否定に関してフローベールから現代小説まで(ウルフを含めて)幅広く論じた Aaron Matz, The Novel and the Problem of New Life (2021)の所論を紹介する。次いで、ヴァージニア・ウルフと反出生主義について考え始めるにあたって手掛かりとなりそうな次の3つの論点について具体的に議論する。(1)セプティマスの出産否定は、ウルフ自身の(フェミニズムではなく)美学的、個人的な志向に由来すると述べる Matz の見解を検証しつつ、セプティマスの自殺について再考する。(2)『灯台へ』においてラムジー夫人は、ショーペンハウアー的な美的観照を通じて瞬間に永遠的なものを見いだす一方で結婚と家庭に執着する。リリーはその芸術的な面を受け継ぎつつ、結婚と家庭は拒否する。ここから女性芸術家の自立と出産否定の関係について考察する。(3)森岡正博は、人類が存在しない地球を重んじる自然保護主義と反出生主義は親和性が高いとしている(実際、ベネターも人類は死滅したほうがよいと主張している)。ウルフの作品に頻繁に現れる人間不在の自然への想像力は、反出生主義のこの側面とどう関係しているか考察する。
生まれないこと、生き延びること――『ダロウェイ夫人』における反出生主義と共感
矢口 朱美
Mrs. Dalloway のセプティマスは「何か」に直面することができない。その「何か」とは、よく論じられるように彼の戦争体験であり、同性愛であると考えられる。病める彼の自己は、直面できないそれの周りを回っている。そこにしか彼自身の本質とみなされるものはないが、そこに飛び込んでいくことは彼にとって死を意味する。
社会は戦争の記憶を、そして新たに来る戦争の予感を抑圧しようとし、セプティマス自身もまた、正気を保とうとして女性と結婚する。しかしそれは彼の本質を構成するものから逃避しようとする行動であり、それゆえに「罪」である。「罪」を彼に犯させる社会を彼は憎む。一方で、自分の本質との直面を避けることを自ら選び、「罪」を犯すことに個人的にも加担しているセプティマスは、自分は罰を受ける運命にあると恐れている。このようにして彼の自己嫌悪は、同じ「罪」を彼と共有する社会にはびこる人間性そのものに対する嫌悪にもつながっていく。彼は存在してはならない者である。そして人間は自分の種族を増やしてはならない。セプティマスの反出生主義とはそのようなものであると考えることができるかもしれない。
そのようなセプティマスに対してクラリッサが感じる共感は、彼の反出生主義を鍵として成立していると考えることができるのではないだろうか。本発表では、この点について論じつつ、共感に基づくケアの思想と、反出生主義との間のつながりについて考えてみたい。
反出生主義と優生思想――「産む性」としてのヴァージニア・ウルフの葛藤の軌跡
加藤 めぐみ
結婚後、間もなくして精神の病の発作を起こしたヴァージニア・ウルフは、主治医のサヴェッジなど複数の医師のアドヴァイスを受け、夫レナードと話し合った結果、子どもを「産まない」という選択をした。この選択は、出産、子育ての心身への負担を配慮しての夫婦間のプライベートな決定と考えられるものの、19世紀末から 20世紀にかけて欧米諸国に広く浸透していた優生思想、さらには21世紀の反出生主義の観点からはどのように捉えることができるだろうか。
そこでまず本発表では、優生思想のなかでも、消極的優生学(negative eugenics)、すなわち「望ましくない」とされた人々の生殖を制限、排除することによって、そういった形質が次世代に伝わることを防ごうとする優生思想、政策と、反出生主義の「誕生否定」「出産否定」との相違点を探る。特に両思想の視点から「産む性」としての女性の立ち位置の再定位を試みたい。そのうえで「産む」という選択肢を選ばなかったヴァージニア・ウルフの「産む性」としての葛藤の軌跡を彼女の日記、著作などから辿っていく。

