7月例会のご案内
2023年度7月例会は、7月16日(日)一橋大学にて下記の要領で開催いたします。
例会としては久しぶりの対面開催となります。皆様、ふるってご参加くださいますようお願い申し上げます。なお、懇親会は実施いたしませんが、例会終了後しばらく教室で自由に懇談いただければと考えています。
第127回例会(2023年7月例会)
- 日時
- 2023年7月16日(日)
14:00~17:15 例会
17:15~18:00 懇談 - 会場
- 一橋大学国立(東)キャンパス 東2号館2201教室
- 会場アクセス
- URL:https://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/kunitachi.html
- 建物配置図
- URL:https://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/campus/index.html
研究発表: 1.田口嵩人氏(一橋大学大学院博士後期課程) |
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E・M・フォースターの『インドへの道』における結びつきと情動――嗅覚と触覚―― (Connection and Affect in E.M. Forster’s A Passage to India: Olfaction and Tactility) |
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2.加太康孝氏(都留文科大学講師) | ||
ダロウェイ夫人のパーティー短編作品群における中年登場人物の若さ (Youth of the Middle-Aged Characters in Mrs Dalloway’s Party Short Story Cycle) |
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3.四戸慶介氏(岐阜聖徳学園大学講師)・菊池かおり氏(大東文化大学准教授) | ||
社会・世界の分断と(英語)文学・文化研究 (Literary/Cultural Studies within A Divided Society/World) |
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4.齋藤一氏(筑波大学准教授) | ||
中動態、原爆文学、ウルフ――柳瀬(2022)への応答―― (Middle Voice, Genbaku Literature, Woolf: A Response to Yanase (2022)) |
7月例会の発表概要
研究発表1
E・M・フォースターの『インドへの道』における結びつきと情動――嗅覚と触覚――
一橋大学大学院博士後期課程 田口 嵩人
『ハワーズ・エンド』(1910) のエピグラフ「ただ結びつけよ」( “Only connect...”) に見られるように、E・M・フォースターの長編小説において「他者との結びつき」という主題は繰り返し登場する。第一作目の『天使を踏むも恐れるところ』(1904) ではイギリス的価値観とイタリア的価値観が、『ハワーズ・エンド』では英国内での中産階級内での結びつきが模索される。最終作の『インドへの道』(1924) では、英国とインドの国家間、英国人とインド人の人種間、そして英国人同士、インド人同士のコミュニティ間での結びつきが探求される。しかしフォースターは、マラバール洞窟のエコーを起点とし、それらの達成不可能性を描いているように思われる。これまでに多くの批評家が、『インドへの道』における結びつきが果たされない原因を、さまざまなアプローチによって論じてきた。例としては、M・ブラッドベリーらのモダニティ/モダニズム批判、E・サイードによるフォースターのオリエンタリズム批判、S・スレーリによるセクシャリティ批評を取り入れた脱構築などのアプローチが挙げられる。
本発表では、「下位」五感 (“lower” senses) を通した情動に着目し、『インドへの道』における結びつきの問題を再考したい。ここで情動という概念を採用する意義は、情動が持つ流動的な運動性に着目し、作品内での情動による間主体的な結びつきが実現しうるかを探ることにある。ヴァルター・ベンヤミンは近代における知覚の変容を指摘し、「ボードレールにおけるいくつかのモチーフ」(“On Some Motifs in Baudelaire”)にて、西洋文化において特権化された視覚とは異なり、それらの「下位」五感は過去を前言語的なイメージとして知覚すると論じている。すなわち、思考を介さない直感的かつ感覚的な嗅覚・触覚による刺激は、知性では捉えきれない身体を介した情動を分析する上で有効だと考えられる。ゆえに本発表では、感覚の中でも「下位」五感に分類される嗅覚と触覚に注目する。
第一部モスクでは、アジズを経由する嗅覚・触覚の情動に着目することによって、マラバール洞窟訪問以降に生じる不和の兆候を読み取りたい。第二部ケイブでは、ムア夫人がエコーに直面する直前の場面におけるインドの村人たちの臭いや身体的な接触、アデラが裁判直後に感受するインド人群衆の「不安を感じさせるような」(“disquieting”) 汗の臭いに着目し、二人がインドを拒絶する際にどのような情動が作用しているかを論じる。さらに第三部テンプルにおいては、アジズとフィールディングの別れ際の「なかばキスをするような」(“half-kissing”) 接触のみならず、アジズとムア夫人の息子ラルフとの間では握手が交わされ、言語を超越した未来の和解の兆しがあることを明らかにする。
本発表ではこのように、西洋文化で「上位」とされた視覚の代わりに嗅覚・触覚という「下位」五感に着目することによって、『インドへの道』における隠された結びつきへの希望を明らかにしたい。
研究発表2
ダロウェイ夫人のパーティー短編作品群における中年登場人物の若さ
都留文科大学講師 加太 康孝
本報告では、ヴァージニア・ウルフが1920年代前半に執筆していた、ダロウェイ夫人のパーティーを舞台とする短編群を扱う。その中でこれらに登場する中年の人物に焦点を当て、その若さについて考察する。主に対象とする作品は「ボンド通りのダロウェイ夫人」(‘Mrs Dalloway in Bond Street’)、「新しいドレス」(‘The New Dress’)、「幸せ」(‘Happiness’)、「共にありそして離れて」(‘Together and Apart’) である。報告は対象作品のテクストそのものの読解を中心とするが、その上で同時代の作家であり同様の関心が窺われるマンスフィールド (Katherine Mansfield) の作品も参照し、モダニズムにおける中年性というより大きな問題をも念頭に置いて進めていく。そのことによって、ウルフ作品に見られる中年性における若さ、幼さを整理した形で考えることを目指す。
ウルフが1922年に『ジェイコブの部屋』 (Jacob’s Room) を出版した後、その次作を準備する過程でパーティーという社会空間に関心を抱いたことは、「パーティー意識 (party consciousness)」という言葉とともによく知られている。パーティーという特殊な状況では例えば性差や階級差といったものが通常と違う形で意識され、ウルフのパーティー作品群でもそのことが描き出されている。
このうち、本報告では年齢に関する意識に焦点を当てる。パーティーで年齢ないし年頃が意識される場面のひとつに、ヨーロッパ社会で伝統的な、若者の社交界デビューがある。ウルフのパーティー短編群にもこれを扱った「披露」(‘The Introduction’) があり、同作ではリリー (Lily Everit) がパーティーという場に初めて足を踏み入れ成人への第一歩を踏み出す。社会の中で自分が占めるべき位置、果たすべき役割を意識したリリーはしかるべく振る舞おうと努めると同時に、居心地の悪さを感じるのである。このような若者の「デビュー」とは程度も種類も異なるものの、本報告で扱う短編作品における成人、特に中年の段階にある登場人物もまた自身の年齢を意識し、その年齢でのあるべき姿と実際の自分との齟齬を感じている。
本報告ではまず、「ボンド通りのダロウェイ夫人」におけるクラリッサ・ダロウェイが抱く年齢意識を読み解く。(昨年3月の例会で報告させていただいたように)小説の『ダロウェイ夫人』(Mrs Dalloway) では年齢への意識が明示的に表れているが、こちらの短編でもそれは同様であり、むしろ中年という段階についてはより顕著である。この短編は『ダロウェイ夫人』冒頭部と重なる部分も多く、もっぱら後の小説の原型と捉える向きも多い。しかしながら同時に、「ボンド通りのダロウェイ夫人」はパーティー短編作品群の冒頭に位置するものとして構想されたものでもあるから、本報告でもこれを後続短編の基調を成すものとして精読する。特に生死への意識、幼年期への言及、異なる種類の時間のあり方に着目する。
「新しいドレス」、「幸せ」、「共にありそして離れて」の3作品はいずれもパーティーの最中を舞台としており、小説の『ダロウェイ夫人』には最終的に含まれることのなかった場面が描かれている。これら3作品ではいずれも中年登場人物の不安定性、中間性が描かれており、また「30代/40代である/既婚者である/親である」にもかかわらず年齢相応の成熟が達成されていない、という書き方が見られることが特徴である。これらの未成熟にはマンスフィールドの「幸福」(‘Bliss’) や「亡き大佐の娘たち」(‘The Daughters of the Late Colonel’) などにおけるそれとの類似点が見出される。
このように本報告では短編集を二部に分けて読み解く。そのことによって短編集内部の(さらには後の小説『ダロウェイ夫人』との)一貫性や異質性について考察する。これを通じてウルフ作品における中年性の多様な表れ方を整理し、モダニズム作品における中年性を研究する枠組みを構築したい。
研究発表3
社会・世界の分断と(英語)文学・文化研究
岐阜聖徳学園大学講師 四戸 慶介
大東文化大学准教授 菊池 かおり
2016年米大統領選でのトランプ政権誕生、そして同年の国民投票による英国EU離脱の決定は、英米の国内における社会の分断という言葉をもって広く報道された。さらに、2020年代の幕開けとともに広がった新型コロナウイルス感染症 (COVID‑19) によるパンデミックや、2022年にはじまったロシアのウクライナ侵攻によって、民主主義国家と権威主義国家の対立構造など、世界の分断はより鮮明なものとなった。こうした状況にあって、文学や文化を研究するという行為は、社会・世界の分断との関係において、どのような行為と位置づけられるのか。また、どのような役割を担っているのか。かなり大きなテーマではあるが、本発表ではそうした問題を考える契機として、近年刊行された2つの論文を取り上げてみたい。
そのひとつは、2022年、New Left Reviewに掲載されたGöran Therbornの “The World and the Left” である。Therbornは、気候変動や帝国主義に紐づいた地政学、デジタル資本主義、金融資本主義等によって助長される冨の一極集中など、20世紀に噴出した諸問題が、ネオリベラリズムを介して、21世紀に継承されていることを指摘する。それを踏まえて、同時多発的に、世界各地で形成される「新しい左派」、その背景と働きを考察することで21世紀の今、左派の役割を再評価しているのが、この論文の狙いである。
そしてもうひとつは、2023年にBoundary 2に掲載されたLeah Feldmanの “Trad Rights: Making Eurasian Whiteness at the ‘End of History’” で、トランプ政権誕生の際に立ち上げられた特集企画の一篇である。この論文は、白人至上主義やファシズムといった1930年代の再来を思わせる現代の右派の思想が、21世紀の文脈において、いかに、「権威主義的感情構造」や「ネオリベラルな思想形態」、そして反グローバル主義と関わりながら形成されたのか、その過程と複雑な構造を読み解く。そしてFeldmanは、現在のウクライナ情勢を取り巻く言説の仕組みを露にする。
これら2本の論文を考察することで、本発表は、分断された社会・世界における左派・右派それぞれにまつわる諸問題を確認しながら、そのメカニズムを紐解いていきたい。そして、分断という言葉で語られてきた現代の社会・世界において、(英語)文学・文化研究がどのように機能し得るのか、今一度、考えてみたい。
研究発表4
中動態、原爆文学、ウルフ――柳瀬(2022)への応答――
筑波大学准教授 齋藤 一
本発表は、三島由紀夫研究者の柳瀬善治による論文「森瀧一郎研究覚書その二――「中動態の哲学」を経由して原爆文学研究への架橋を試みるためのノート――」(『原爆文学研究』第20号、2022年)のサブタイトルが「中動態の哲学」と原爆文学研究との関係を強調していること、そして論文中でこの関係がウルフのテクストとの関係において言及されていることに注目し、その意義を検討しようという試みである。
(柳瀬論文は以下のULRにおいて全文を読むことができる。http://www.genbunken.net/kenkyu/20pdf/20_05_yanase.pdf)
論文第4節、「中動態研究と原爆文学研究との接点――倫理性と構想力の交錯――」、そして第5節「新たなる『ミメーシス』=「惑星的思考」へ向けて」において、柳瀬は國分功一郎の中動態研究を理解の補助線としながら、北米における日本の原爆文学研究の金字塔、ジョン・トリート『グラウンド・ゼロを書く』(原著1999年、日本語訳2010年)を、ヘイドン・ホワイトを経由しつつ、エーリッヒ・アウエルバッハ『ミメーシス』(原著1946年、日本語訳1967年)、特にその最終章のウルフ論へとつなげている。
柳瀬の議論を概略する。まず「原爆文学研究において中動態という記述の重要性を示唆したのはJ・W・トリートの『グラウンド・ゼロを書く』である」(柳瀬99)。
トリートは中動態による歴史記述のビジョンとして「文字的なものと像的なものとの間の、また、主観性と客観性との間」を描くものであり「虐殺自体はもちろん、その歴史的コンテクストをも消し去ることなく、しかも私たちの紋切り型の表象にも回収されないような、ポスト虐殺的な観点であり、また個人的でも社会的でもありながら、私たちの個人としての存在とも、私たちが共有する体験とも違う、ナラティブの中心となる場」の必要性を説いている。
ここでトリートが参照している中動態解釈はヘイドン・ホワイトの「歴史のプロット化と歴史的表象をめぐる真実の問題」論文の解釈であり、ホワイトはロラン・バルトの「書くことは自動詞か?」をその理論的霊感源としている。(同上)
この引用における「主観性と客観性」を、たとえば原子爆弾の加害者/被害者は誰かという問いとおきかえると、この問題設定の重い意味が見えやすくなるかもしれない。原爆文学は否応なくこの加害/被害という二項対立に直面せざるを得なかったのであり、それを知るトリートはこの対立とは別の可能性を示したかったと言ってもよいだろう。
ここで重要なのは、柳瀬が、ホワイト論文におけるアウエルバッハのウルフ論への言及に注目していることである。柳瀬は國分がホワイトの中動態解釈を批判していることを取り上げつつ、以下のように述べている。
先に國分によるホワイトへの批判を取り上げたが、ホワイトの論述には國分の引用していない続きがあり、國分がデリダの哲学的直感を示すものとして何度も援用する「哲学は、たぶん、或る種の自動詞性を表現している中動態を能動態と受動態とに配分するところから始まったのであり、このようにして中動態を抑圧することによって自らを構成してきたのだった」を引用した後に、(引用者注:ホワイトは)アウエルバッハ『ミメーシス』でのヴァージニア・ウルフ評価へと議論をつなぎ、そこでの五つの評価を「バルトとデリダが「中動態的なもの」の文体と呼んでもよかっただろうものについての、ほかにもあるかもしれないどのような特徴付けにも劣らぬ見事な特徴づけ」とみなしていることである。(柳瀬101)
アウエルバッハのウルフ評価は、柳瀬が紹介している「中動態による歴史記述のヴィジョン」という議論の枠組みにおいて、どのように読み直すことができるのか。本発表ではアウエルバッハやウルフ『灯台へ』のテクストに即して具体的に検討したい。