3月例会のご案内

 2024 年 3 月例会を、下記の要領で開催いたします。例会終了後には懇親会も予定しています。
 (懇親会の申し込み締め切りは2月17日(土)となっています。2024年度1月のニューズレターをご覧く ださい。非会員の方は、事務局にお問い合わせください。)

第128回例会(2024年3月例会)

日時
2024 年3 月24 日(日)
14:00~17:20 例会
会場
相愛学園(相愛大学)本町学舎 C601 教室
交通アクセス
URL:https://www.soai.jp/access/index.html
所在地・地図
URL:https://www.soai.ac.jp/univ/access.html

※会場の入り口は相愛学園(中学・高校)の入り口とは違いますのでお気をつけください。

相愛学園の地図


研究発表:
1.西脇智也(東京大学大学院博士後期課程)
〈幸福〉からの逃走―『船出』における自己形成と搾取
(Escape from the Happiness―Self-formation and Exploitation in The Voyage Out)
 
2.梅田杏奈(甲南大学非常勤講師)
フラッシュとローヴァー―「写実的なフィクション」と「ファンタジー」における犬
(Flush and Rover: The Dogs in a Realistic Fiction and Fantasy)
合評会:
『マーガレット・アトウッド『侍女の物語』を読む――フェミニスト・ディストピアを越えて』を読む
司会・講師 加藤めぐみ(都留文科大学教授)
講師 中村麻美(神戸大学専任講師)
講師 髙村峰生(関西学院大学教授)
コメンテーター 伊藤節(東京家政大学名誉教授)

3月例会の発表概要

研究発表1
〈幸福〉からの逃走―『船出』における自己形成と搾取

東京大学大学院博士後期課程 西脇 智也

 本研究発表は、ヴァージニア・ウルフの『船出』(The Voyage Out, 1915)における女性の自己形成という主題について、〈幸福〉への批判および他者の搾取という観点から再考する。主人公のレイチェル・ヴィンレイスは、政界進出の野心を持つ貿易会社社長の父と貞節を重視する二人の叔母の庇護のもと、正規の教育を受けず同年代の友人もなく育てられた結果、特に性的な事情について年齢不相応に無知な人物である。こうした出自に由来するナイーヴさゆえに、レイチェルは、美しく洗練されているが軽薄なクラリッサ・ダロウェイに影響され、その夫リチャードによる同意のない性的接触の犠牲となってしまう。未成熟な姪を見かねた叔母のヘレン・アンブローズは姪を分別のある女性へと教育する役割を引き受け、物語の主要な舞台である南米の英国植民地サンタ・マリーナに保有するヴィラでレイチェルに自分ひとりの部屋と様々な書物を与える。読書による思索の深まりと、レイチェルの恋人・婚約者となるテレンス・ヒューウェットをはじめとする英国人観光客たちとの対話を通じて、レイチェルが精神的成熟を遂げる過程が小説のメイン・プロットとなる。

 植民地を舞台とする女性教養小説といえる本作では、女性たちの結婚を巡る複数のプロットが展開されている。夫の性差別的で帝国主義的な政治観を共有するクラリッサに加え、アーサーとの婚約により既婚女性の身分を手に入れたと歓喜し、同時代の女性たちを公的な慈善活動へ促す不満の原因を、未婚という立場によるものと考えるスーザンが登場する。結婚がもたらす〈幸福〉は、女性たちを公的空間から切り離して家庭の私的空間へ囲い込むとともに、抑圧的な政治的立場への共犯者とするよう機能している。他方で、革命や入植といった政治的事業への憧れを隠さないエヴリンは、彼女に好意を向ける男性たちのうち誰を選べばよいのか決定できないでいるが、自分より偉大な人物と心を通わせたいという彼女は、恋愛感情を強力な政治的指導者を待望する政治的ロマン主義に結びつけている。レイチェルが婚約直後に熱病で急逝する展開は、洗練された知性や類稀な音楽の才能を捨てて家庭で夫に従属するという、イギリスで彼女を待ち受ける運命からの逃避として解釈されてきた。レイチェルの個人としての自律性の損失という観点からなされたこのフェミニズム的解釈を、〈人間〉以下の存在とされてきた非白人や動物などの他者の苦痛への想像という観点から捉えなおすことが本発表の目的である。

 サラ・アーメッドは、白人中産階級の主婦というイメージに結び付けられる〈幸福〉を、女性が対処する労働の現実を不可視化する幻想と批判したうえで、ルソーの『エミール』以後の教育論が、〈幸福〉をもたらす結婚という対象に向かうよう女性たちの意識を方向づけ、男性家長を頂点とする家庭生活の外部への想像力を狭めてきたと論じた(Ahmed 2010)。〈幸福〉は特定の存在の生の様態を向上させるよう女性に促す一方、共感や親密圏の外部にいる他者の苦痛への想像力を鈍麻させるのだ。本発表では、レイチェルがアマゾン川流域の村落で目撃する女たちや、父親が南米に輸出する「山羊」、ホテルの裏側で老女に首を刎ねられ、観光客たちの食事に供されると考えられる「鶏」など、非白人および動物への様々な暴力と搾取が書き込まれ、レイチェルがそれを想像したり目撃している点に着目する。家父長制のもとで自律的個人への成長を阻まれた女性の成長物語の悲劇的顛末であるレイチェルの死は、他者の犠牲のもとで維持される〈幸福〉という価値への能動的な拒絶として解釈しうるのである。

参照文献
Ahmed, Sara (2010). The Promise of Happiness. Duke University Press.


研究発表2
フラッシュとローヴァー―「写実的なフィクション」と「ファンタジー」における犬

梅田杏奈(甲南大学非常勤講師)

 『ゲド戦記』の著者としても知られるアーシュラ・K・ル=グウィン(Ursula K. Le Guin)は、著書『ファンタジーと言葉』(The Wave in the Mind: Talks and Essays on the Writer, the Reader, and the Imagination)の中で、「ファンタジー」(fantasy)の持つ普遍性について論じている。「ファンタジー」は時代が変わっても、国や地域が違っても、誰もがその内容を理解することができるというのだ(43)。その比較として、ル=グウィンは「写実的なフィクション」(realistic fiction)を挙げる。本発表では、数ある「写実的なフィクション」と「ファンタジー」の中でも、執筆された時代や国に加え、犬が主人公といった共通点を持つ2 つを取り上げる。

 ひとつがヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf, 1882-1941)の『フラッシュ―或る伝記』(Flush: A Biography, 1933 以下『フラッシュ』とする)であり、もうひとつがJ. R. R. トールキン(J. R. R. Tolkien,1892-1973)の『仔犬のローヴァーの冒険』(Roverandom, 1998 以下『ローヴァー』とする)である。ウルフは 1933 年、『フラッシュ』を出版した。副題からも明らかなように、これは「伝記」という形式をとっている。自然豊かな田舎で生を受けたフラッシュが、新たな飼い主エリザベス・バレットの元へと引き渡され、彼女の愛犬としてその一生を終えるまでの約10 年が描かれている。そのため、これがフラッシュという犬の「伝記」だと考えるかもしれない。しかし、この小説を通して鮮明になるのが、生き生きとした犬の姿というより人間であることを鑑みれば、これは犬の視点で書かれた人間の話、特にエリザベスについての「伝記」であることが分かるだろう。とはいえ、フラッシュは決して言葉を発しない。もちろん、「犬だから」と片付けてしまえばそうなのだが、それなら犬の視点で語られる事も全て否定することになる。そもそも、人間にとって犬の考えや感情を、完全に理解することは不可能であるし、ましてウルフにとってフラッシュは、会ったこともない犬である。エリザベスの日記や手紙から事実を引用しても、空白部分が生じるのは当然であり、そこは創造するしかない。「伝記」といえば事実に基づくもの、あるいは現実的なものというのが前提にあるはずではないか。ウルフはエッセイ「伝記という芸術」(“The Art of Biography,” 1939)において、「伝記作家は事実に縛られている」(12)と述べている。しかし、既に知られた偉人より、無名の人物の方が書きやすい。その理由として、無知故の自由さ及び制限の緩さを挙げる。つまり、伝記作家とは「滅びやすいものを受け入れ、それを使って作り上げ、作品の構造そのものにそれを埋め込」(13)む、いわば事実と虚構の塩梅を極めた「職人」(13)だというのである。したがって、この「伝記」こそ、ル=グウィンの言う「写実的なフィクション」のひとつといえよう。

 そして、ウルフがこの『フラッシュ』を執筆し始めた1931 年より4 年早く、トールキンは『ローヴァー』を書き始めた。これは、ローヴァーが宇宙や深海を旅する冒険ものである。この犬はフラッシュと違い、言葉を話す。飼い主である少年とも、ある条件下に限った話だが、会話を交わすことができる。人間の思考を介さず、ローヴァーは自ら考え、行動する。その様はまさに「冒険者」であり、人間に縛られない自由さがある。批評について言えば、1998 年まで出版されなかったためか、ほとんど行われていない。

 『フラッシュ』については、それがエリザベスの「伝記」になっているという点などから、これまでも数々の分析がされてきたものの、「ファンタジー」との比較がされてきたことはなかった。その原因としては、多くの批評家が、「ファンタジー」を議論の対象から外してしまうことが挙げられる。このように、「ファンタジー」が子供のためだけの娯楽として軽視される風潮が根強いのも事実だが、本発表では、同時期に書かれた 2 匹の犬の話について分析を行い、『ローヴァー』において読み取れる「ファンタジー」の可能性及びル=グウィンの言うところの「普遍性」とは何かを探りたい。

引用文献
ウルフ、ヴァージニア『病むことについて』川本静子訳、みすず書房、2002 年。
ル=グウィン、アーシュラ・K『ファンタジーと言葉』青木由紀子訳、岩波書店、2006 年。


合評会
『マーガレット・アトウッド『侍女の物語』を読む――フェミニスト・ディストピアを越えて』を読む

司会・講師 加藤めぐみ(都留文科大学教授)
講師 中村麻美(神戸大学専任講師)
講師 髙村峰生(関西学院大学教授)
コメンテーター 伊藤節(東京家政大学名誉教授)

 マーガレット・アトウッド(1939-)が『侍女の物語(The Handmaid’s Tale, 1985)』を執筆してから 40 年近い年月が流れようとしている。しかしこの作品は時を経て色褪せるどころか、近年、ますますその先見性、今日性に注目が集まっている。特にトランプ政権が誕生し、Hulu のTV ドラマ『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』が配信されるようになった 2017 年以降、オーウェルの『一九八四年』とともに再ブームが起き、2019 年に発表された続編『誓願(The Testaments)』はブッカー賞を受賞した。

 環境汚染、放射能廃棄物などの影響で生殖能力を持つ女性が僅少となった近未来の独裁国家を描いたこのディストピア文学が、2024 年の今なぜ、フェミニスト・プロテスト文化の象徴として耳目を集め、アクチュアリティを持っていると感じられるのか。その問いに答えるべく、本論文集は編まれた。そして女性の身体と連帯、歴史と記憶、声と語り、独裁国家、生政治、エコロジー、セクシュアリティ/ジェンダー、ケア、フェミニストSF・・・アトウッドの二部作が喚起するテーマ群について、それぞれのスペシャリストに執筆を依頼して出来上がったのが『マーガレット・アトウッド『侍女の物語』を読む――フェミニスト・ディストピアを越えて』(水声社、2023 年)である。

 本合評会ではまず編者である加藤、中村から、『侍女の物語』『誓願』の各作品の概要、アダプテーションや社会的現象、今後の研究の可能性の広がりなどを紹介したうえで、本論集の企画・出版に至った経緯、論集の全体像をスライドや映像を交えて解説する。そして映画、グラフィックノベル、オペラなど、数あるアダプテーション作品のなかでももっとも影響力を持っていて、現在も進行形である HuluのTV ドラマシリーズの見どころ、原作との相違点、シーズン6以降の展開への期待などについて、髙村から紹介する。さらにその他の執筆者(オンライン参加もあり)からも、それぞれの論考の概要や論集全体について、解説を加える予定である。後半では、2008 年、彩流社の《現代作家ガイド》のシリーズのなかで『マーガレット・アトウッド』を企画、出版された共編著者のお一人である伊藤節先生から、アドウッドの研究動向を踏まえて、この度の論集についてご論評いただく。最後は時間の許す限り、フロアに開き、本論集についての感想、ご意見を自由にご発言いただき、質疑応答、闊達な議論が盛り上がることと期待している。

 ヴァージニア・ウルフとマーガレット・アトウッド――20 世紀から 21 世紀の文学的イマジネーションの世界を切り拓いた二人の女性作家に流れる血脈は果たして見出せるだろうか、アトウッドがフェミニスト・ディストピアを越えたところに未来への希望を見出したように、ウルフは自身の生きた世界のその先にどんな未来を見据えていただろうか。本合評会を通して、お一人おひとりに問うていただけたらと願っている。


7 月例会についてのお願い

 2024 年7月例会は、7 月21 日(日)に東京都内の大学で対面にて開催する予定です。研究発表をご希望の方は、4 月 1日(月)までに応募書類を事務局宛てにお送りください。応募書類の詳細は日本ヴァージニア・ウルフ協会 HP をご覧ください。このところ毎回、締め切りをすぎてからたくさんのご応募をいただいておりますが、期日までのご公募にご協力をお願いいたします。

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